自由な、調和のとれた、何気ない、殊に何気ないといふ事は日常生活で一番望ましい気がしている。
文豪・志賀直哉は自らの作品の中でこう語っている。
日常のふるまいについて、我々は時としてその喜びを忘れることがある。
出勤や通学準備をした後、すし詰めの電車やバスに揺られながら職場や学校に向かい、
到着すればその空間の速度に従い、繰り返される日々の生活に忙殺されていく。
例えばそこに、小さな綻びを感じることがあっても、大きくは普段の生活から逸脱することもない。
時にはそれが疎ましくも感じ、また無為無聊を意識しながら
時に日常を取り壊す変化が来ることにある種の期待感を抱きながら、窓の外を眺めることもある。
遙かなる地のことを引き合いに出すこと事態、またそれを押し付けることなど
空論で無意味なことであると理解してはいるが、先進的な国に住む人々の日常に対する虚無感を受け取る度常に、
かの発展途上国で生きる人々の生活ぶりを是非とも心に享受してもらいたい、と願うのは野暮であろうか。
日常とは、それほどに強力なものなのである。
気づかぬうちに、如何に我々の生きるこの状況が、万全に近い体制で我々を救っているのである。
凪のような生活空間に虚無虚脱を感じるのは人間の業であるかもしれないが、同時に、
その凪の中には計り知れない力が秘められていることを、強く幸福と呼ばれる空間にしっかりと嵌っている我々は
気づいていたとしても少しだけそれを忘れたいと願いながら生きているという側面も否めない。
繰り返し咆哮のごとく小欄でも連ねてきたが、
今年はいつもにも増して野球が出来ることに対する喜びを感じた、他に例をみない年であった。
天候に悩まされることは、限度を超えてそれそのものが日常化するような危うさも含んでいた。
最後の最後になってまでも、前日の大雨で対戦が不可能なのではないかとの恐れもあったほどである。
しかし、次回の試合が出来るに至って、その喜びをひしと感じることが出来たのは、
逆に嬉々の倍加を招いたのではないだろうか。
不幸が幸福の気づきである、と達観して答えることは容易にできないが、それも言い得て妙なのかもしれない。
大きな災害により、小さな幸せに大きな喜びを感じた。
などと言う気は毛頭ない。災害など起きないに越したことはないのだから。
ただ、大きく「日常」の存在感に気付かされたこの年のことを、
後年も決して忘れることはないだろうということだけは、いま、ハッキリと言える。
来季も、野球が出来ることに喜びを忘れずに、ただただ尊き日常を送らせていただくことを願う。