球団を「混乱期」から「復興期」へと誘ったのが
相手を悉く打ち崩す破壊的な打撃力であった。
2002年に新規加入してきた選手たちによって
チームの打撃力は格段にレベルを上昇させた。
特に、長打を放つ選手が続々加入し、
不安な守備力をカバーするに余りある力を発揮した。
その長打チームの原動力となったのが青原である。
ルーキーイヤーの2002年には打率4割をマーク。
そして、本塁打も2本放つなど
4番打者としての位置を早くも不動のものとした。
【写真】 本塁打を放ちベンチで迎えられる青原(左)
打撃のニューヒーローとして脚光を浴び、
瞬く間にスーパースターへの階段を駆け上がった青原。
プライベートな時間もファンへの対応を怠らず、
人気も不動のものとなっていった。
成績の方も上々、
2年目は、打率成績は振るわなかったものの、
本塁打は前の年を上回る3本を放つなど
2年目のジンクスを払拭した。
そして2005年までの4シーズン、毎年本塁打を放ち
2006年までに、合計10本の本塁打を放った。
【写真】 試合後、快くファンのサインに応じる青原(右)
本塁打と安打大量生産機の異名を取り、
打率、打点、本塁打の全てにおいて
成績を残し続けてきた青原を悲劇が襲った。
愛用してきた「黒バット」が
相手投手の剛速球の下、真っ二つに破断したのだ。
悲しみに暮れる青原はその後、スランプに陥るが
持ち前の危機対応能力をフルに発揮して
新バットを手に入れると同時に復活。
無念の愛機への手向けとも取れる活躍をみせ、
2005年には3割5分、本塁打4本、21打点という猛攻で
チームの勝利に貢献した。
【写真】 "愛機”が折られ、号泣する青原
打撃、守備ともに素晴らしい活躍を続ける青原だが、
チームへの愛情も強かった。
2003年のシーズンオフからは、緊急臨時コーチに就任。
鬼のような特訓を繰り返し、チーム力の強化に努めた。
厳しいながらも、後輩への丁寧な指導には定評があり、
2005年、球団から正式な「兼任コーチ就任」の要請を受けるも、
青原は「生涯現役選手」への拘りを捨てきれず、辞退した。
コーチ就任辞退を受け入れた球団は、青原への敬意を払い
2006年、史上2人目となる「殿堂入り」を発表した。
【写真】 寒空のなか、後輩を厳しく指導する青原(左)
輝かしい活動の裏では、球団との軋轢もあった。
年俸交渉では、史上初となる「複数年契約」を結ばせるなど
「強引」とも言える手法に一部からは批判も出たが、
これも「後輩たちのため」と、
今後の選手達への配慮から取った行動であると、後に明かしている。
チームを愛し、選手を愛する青原。
殿堂入りについて、こう語る。
「今まで野球をやってきてよかったです。
これからはゴルフの方でかんばりたいと思います。 」
今後の更なる活躍に期待する。
【写真】 厳しく選手を指導する青原
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