社会は相変わらず混沌としながら停滞していると思われている。
数字で語られるほどに生活が改善しているわけでもなければ、周囲の生活に上向きの変化が感じられない。
相変わらずバブル景気の再燃を心のどこかで期待する感の一方で、停滞への慣れが諦めを助長している感もある。
停滞感に鬱積し、改善の緒を探る術に迷走しながら飛びつこうとして必死で蜿くことに対しても
些かの羞恥と不活発な状態の維持に無感覚となり、憂さを晴らすためだけに「行進」に興じる空気が蔓延してる。
体制の変化に対する期待や、上部に対する依存意識からくる愚痴にも似たopposeだけでは
真の改善は到底望めない状況にあるとの認識が欠落したまま、時間だけが過ぎているのである。
そもそも「改善」に対するアプローチも実は不確かなのではないかとの疑問も一部には蔓延し始めている。
察するに、個々の社会観に対するliteracyの活性が、実生活をややこしい方向に導いているのかもしれない。
そもそも人間という生物が、複雑な社会環境に適応できる能力を備えているのかどうかは些か疑問である。
嫌気性生物のような過酷な、これ自体もヒトから見たエゴに近い感覚ではあるが、その状況下で生きる者に
勝るような刺激耐性を確保しているとは、考え難いのが真実であると思う。
だとすると、長きに渡る理不尽な不景気に対する耐性というのは、既に確立されているにも関わらず、
まだ自分たちは嫌気性生物の生活する深海では生活できないという「思い」が残存し過ぎなのではないか。
個々夫々の感情や考察に言及する気は無いので、特に金銭や生活に対する文句に文句を言うつもりはない。
ただ、不活性に慣れたために刺激に対する閾値が極度に低下しているとしたならば、それは大問題である。
もっと単純に言おう。行進や愚痴を活性化の理由にしてそれを目的化しても何も生産しないということに
来年こそは気づいて「行進」すべきではないだろうか。
今年は大きな災害もなく、むしろスポーツ選手の活躍や科学者の受賞など明るい話題も多かった。
総じて良かったと思えることに対して、もっと素直に喜べる心を「復帰」させることこそが
次代への活性を大いに産むのではないだろうか。
否、産むための心を育てていけるよう、来年の飛躍に期待するのではなく「行進」していきましょう。