■ 球団初のテスト生
【写真】初めて姿を現した当時の清水
入団はドラフトかスカウトと限定していた球団だが、
初めてテスト生制度を適用したのが清水である。
清水はその日「球団のホームページを見た」として 強者のオーラを放ちながら現れた。 2004年、四谷・外濠公園に現れたその男は 球団関係者の目を丸くさせる見事な活躍をみせ、すぐさまテスト生契約となった。
その後も活躍をみせ、シーズン途中からの参加ながら8打数4安打、打率5割の成績を残し、翌年正式契約が交わされた。
清水はその日「球団のホームページを見た」として 強者のオーラを放ちながら現れた。 2004年、四谷・外濠公園に現れたその男は 球団関係者の目を丸くさせる見事な活躍をみせ、すぐさまテスト生契約となった。
その後も活躍をみせ、シーズン途中からの参加ながら8打数4安打、打率5割の成績を残し、翌年正式契約が交わされた。
■ 脅威の出席率
正式に選手となった2005年も勢いは止まらず、打率3割6分2厘、さらには本塁打も3本放つなど、名実ともにチームの主砲の1人となった。
しかし、清水のすごさはそれだけではなかった。
出席率が非常に良いのである。
実家が都心のど真ん中にあることも幸いし、その年、四谷での試合も多かったことなどから、全30試合に対して22試合に出席。他を圧倒する確率で試合に登板しており、球団関係者からも称賛の声が上がった。
しかし、清水のすごさはそれだけではなかった。
出席率が非常に良いのである。
実家が都心のど真ん中にあることも幸いし、その年、四谷での試合も多かったことなどから、全30試合に対して22試合に出席。他を圧倒する確率で試合に登板しており、球団関係者からも称賛の声が上がった。
【写真】小林社長代理(当時)らと入団会見
■ 突然襲いかかった出席激減の悲劇
【写真】身を引き締めるため剃髪
高い打率と本塁打、そして何よりも高い出場率。
チーム安定のための好条件を持ち合わせ、欠かせない存在となった2005年であったが、翌年、清水とチームに悲劇が襲った。
突然、家庭の事情などにより、東京から姿を消さざるを得なくなったのだ。
2006年は前年に記録した30試合にも劣らない全28試合が行われたが、清水の出席は9試合。これからという時だっただけに本人も悔やんだ。
ところが、それでも100キロ近く離れた場所からクルマを飛ばして参加するときもあり、さらにはしっかりと成績も残したのである。
チーム安定のための好条件を持ち合わせ、欠かせない存在となった2005年であったが、翌年、清水とチームに悲劇が襲った。
突然、家庭の事情などにより、東京から姿を消さざるを得なくなったのだ。
2006年は前年に記録した30試合にも劣らない全28試合が行われたが、清水の出席は9試合。これからという時だっただけに本人も悔やんだ。
ところが、それでも100キロ近く離れた場所からクルマを飛ばして参加するときもあり、さらにはしっかりと成績も残したのである。
■ 不動の正捕手
坂野の登場で投手力が一気に増加する一方で、安定した出席率を誇る「捕手」の存在は大きい。
どんな投手が登板してもしっかり受け止める、まさに攻守両役を担える存在となった清水。2007年には優秀賞も獲得した。
この年は、ほぼ100%に近い20試合に出場。
2005年に迫る19安打を記録し、本塁打も2本、そして打点18という数字も記録するなど、往時の野村克也氏を思わせる活躍をみせた。
どんな投手が登板してもしっかり受け止める、まさに攻守両役を担える存在となった清水。2007年には優秀賞も獲得した。
この年は、ほぼ100%に近い20試合に出場。
2005年に迫る19安打を記録し、本塁打も2本、そして打点18という数字も記録するなど、往時の野村克也氏を思わせる活躍をみせた。
【写真】笑顔で優秀賞の盾を手にする清水
■ 打ち立て続ける記録
【写真】ベンチでも捕手姿のまま待機する清水
2008年もその勢いは止まらず、ついには打率4割を超えるにまで成長した。
テスト生時代も含め、一度も3割を切ったことがない選手は清水以外にはおらず、まさにチームの要となった。
数多くの苦難を乗り越えながらも野球を愛し、チームを愛し続けてきた清水。
史上3人目となる殿堂入りについてこう語る。
「こんな成績でもらってよいのでしょうか?
これからは気合いを入れ直し頑張ります。 」
今後の更なる活躍に期待する。
テスト生時代も含め、一度も3割を切ったことがない選手は清水以外にはおらず、まさにチームの要となった。
数多くの苦難を乗り越えながらも野球を愛し、チームを愛し続けてきた清水。
史上3人目となる殿堂入りについてこう語る。
「こんな成績でもらってよいのでしょうか?
これからは気合いを入れ直し頑張ります。 」
今後の更なる活躍に期待する。